「独眼竜」と呼ばれた戦国武将、伊達政宗。
政宗はなぜ右目を失ったのか。そして、なぜ天下人になれなかったのか。
実は、政宗の人生で見逃せないのは後半戦です。天下取りの夢をあきらめた後、70歳まで仙台の国づくりに打ち込みました。
本記事では、独眼竜伝説にまつわる5つの真実を紹介します。野望に燃えた前半と、別の道を選んだ後半。その生き方には、今の私たちにも響くものがあります。
目次
- 政宗が生まれた頃の奥州
- 独眼竜伝説にまつわる5つの真実
- 真実1:右目を失ったのは、幼い頃の病気だった
- 真実2:「独眼竜」は、政宗の死後に付いた呼び名だった
- 真実3:家を継いだ翌年、父を自ら撃つことになった
- 真実4:白装束で秀吉と対面したが、領地は取り上げられた
- 真実5:「百万石のお墨付き」は幻に終わった
- 政宗はなぜ天下人になれなかったのか
- 政宗を支えた3人の家臣
- まとめ:天下をあきらめた後の政宗に学ぶ
- 参考文献・参考サイト
政宗が生まれた頃の奥州
政宗は1567年、出羽国米沢(今の山形県米沢市)で生まれました。当時の奥州(東北地方)では、多くの大名が領地を争っていました。
蘆名氏や最上氏、相馬氏などは、婚姻で結び付きながらも争いを繰り返します。南からは、常陸(今の茨城県)の佐竹氏も勢力を伸ばしていました。
中央では、信長や秀吉が天下統一を進めていた時代です。遠く離れた奥州は、まだ誰が頂点に立つかわからない状態でした。
独眼竜伝説にまつわる5つの真実
真実1:右目を失ったのは、幼い頃の病気だった
政宗は5歳ごろ、疱瘡(天然痘)にかかりました。命は助かったものの、右目の光を失います。
右目は飛び出したようになったと伝えられます。それを、そば仕えの片倉景綱が小刀で切り取った、という逸話が有名です。政宗自身がえぐったという話もありますが、どちらも確かな史料はありません。
政宗は、この姿を気にしていたようです。遺言で、肖像画には両目をそろえて描くよう命じています。
真実2:「独眼竜」は、政宗の死後に付いた呼び名だった
「独眼竜」は、もとは中国・唐の末期の武将、李克用の異名です。片目ながら勇猛だった李克用になぞらえ、後の人々が政宗をそう呼びました。
この呼び名を広めたのは、江戸時代後期の学者、頼山陽の漢詩だといわれます。つまり、政宗自身が「独眼竜」と名乗ったことはありません。
真実3:家を継いだ翌年、父を自ら撃つことになった
1584年、政宗は18歳で伊達家の当主となります。ところが翌年、父の輝宗が敵の畠山義継に連れ去られる事件が起きました。
追いかけた政宗の軍は、義継と輝宗をまとめて撃ちます。輝宗が「自分ごと撃て」と命じたとも伝えられます。
父の死を乗り越えた政宗は、その後も戦を重ねます。1589年には摺上原の戦いで蘆名氏を破り、南奥州の大半を手にしました。
真実4:白装束で秀吉と対面したが、領地は取り上げられた
1590年、秀吉は小田原の北条氏を攻めます。奥州の大名にも参陣を求めましたが、政宗は判断に迷い、到着が大きく遅れました。
政宗は、死装束である白い着物で秀吉の前に現れます。遅れた罪を、命で償う覚悟を見せたのです。この度胸が気に入られ、命は許されました。
ただし、罰は免れません。苦労して手に入れた会津などの領地は、取り上げられました。
政宗を従わせた秀吉は、この小田原攻めで天下統一を果たします。農民の出から天下人へ駆け上がった秀吉の歩みは、「豊臣秀吉の出世街道と人心掌握術に学ぶ、7つの成功法則と処世訓」で詳しく紹介しています。
真実5:「百万石のお墨付き」は幻に終わった
1600年の関ヶ原の戦いで、政宗は家康の東軍に付きます。戦場は関ヶ原ではなく、東北で上杉軍と戦いました。
このとき家康は、勝てば領地を大きく加えると約束します。合わせて百万石になることから、「百万石のお墨付き」と呼ばれました。
ところが、政宗が裏で一揆を後押ししていたことが発覚します。約束はほぼ取り消され、加えられたのは約2万石だけでした。
政宗はなぜ天下人になれなかったのか
「あと20年早く生まれていれば、天下を取れた」。政宗について、よくいわれる言葉です。
政宗が南奥州を手にした1589年、秀吉はすでに天下統一の目前でした。都から遠い奥州で力を付けても、中央の争いには間に合わなかったのです。
ただし近年は、政宗が本気で天下を狙っていたのか疑う見方もあります。巨大な権力者の間で、伊達家を守り抜くための駆け引きだったのかもしれません。
政宗を支えた3人の家臣
政宗には、「伊達の三傑」と呼ばれる家臣がいました。
- 片倉景綱:幼い頃から仕えた知恵袋。小田原への参陣を強く勧めたとされる
- 伊達成実:政宗のいとこで、数々の戦で先頭に立った猛将
- 鬼庭綱元:財政や行政を支えた実務家
知恵と武勇、そして実務。役割の違う3人がいたからこそ、政宗は危うい場面を乗り越えられたのです。
家臣と同じく、伊達家を象徴するのが家紋「竹に雀」です。実はこの紋、越後の上杉家から贈られたものでした。その由来は、「戦国武将の家紋に隠された意味とは?厳選10家の由来と象徴を解説」で紹介しています。
まとめ:天下をあきらめた後の政宗に学ぶ
政宗の人生は、天下取りだけでは語れません。仙台城を築き、城下町を整え、今の仙台市の土台をつくりました。
1613年には、家臣の支倉常長らをヨーロッパへ送っています。これが「慶長遣欧使節」です。天下取りの道が閉ざされても、政宗の目は世界に向いていました。
1636年、政宗は70歳で亡くなります。夢をあきらめた後の後半生も、見事に生き切ったといえるでしょう。
政宗の足跡をたどるなら、次の3か所がおすすめです。
- 仙台城跡(青葉山公園):政宗の騎馬像が、仙台の街を見下ろしています
- 瑞鳳殿:政宗が眠る霊屋(おたまや)で、きらびやかな装飾が見どころです
- 仙台市博物館:慶長遣欧使節の資料(国宝)を見ることができます
大きな目標をあきらめたとき、次に何を目指すか。政宗の後半生は、その問いに一つの答えを示してくれます。あなたにとっての「次の国づくり」は何でしょうか。
政宗の生涯をもっと深く味わいたい方へ
野望に燃えた前半生から、国づくりに打ち込んだ後半生まで、政宗の生涯を通して味わいたいなら、山岡荘八の『伊達政宗』がおすすめです。山岡荘八歴史文庫で全8巻。まずは第1巻から読み始めてみてください。
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参考文献・参考サイト
書籍
- 小林清治『伊達政宗』(人物叢書 新装版)吉川弘文館、1985年
- 小林清治『伊達政宗の研究』(新装版)吉川弘文館
- 佐藤憲一『伊達政宗の手紙』(新潮選書)新潮社、1995年
Webサイト
- 仙台市博物館「主な収蔵品 慶長遣欧使節」
https://www.city.sendai.jp/museum/shuzohin/shuzohin/shuzohin-16.html - 瑞鳳殿 公式サイト
https://www.zuihoden.com/ - 文化遺産オンライン「慶長遣欧使節関係資料」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/158158


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