たった一度の失敗で、それまでの実績がすべて塗り替えられる。長く組織で働いてきた方なら、そんな場面を見たことがあるかもしれません。
戦国時代の今川義元は、まさにその典型です。駿河・遠江・三河の3か国を治め、「海道一の弓取り」と呼ばれた大名でした。それなのに今では、桶狭間で油断して負けた「弱将」のイメージがすっかり定着しています。
本記事では、桶狭間の敗因を整理したうえで、義元にまつわる3つの誤解を解き明かします。
今川義元とは 「海道一の弓取り」の実像
今川義元は1519年、駿河(今の静岡県中部)の今川家に生まれました。今川家は、室町幕府の将軍・足利家の一門にあたる名門です。
義元は、駿河・遠江(今の静岡県西部)・三河(今の愛知県東部)の3か国を治めました。「海道一の弓取り」とは、東海道でいちばんの武将という意味です。
義元の力は、戦だけではありません。父の今川氏親は、1526年に「今川仮名目録」という独自の法律を定めていました。義元は1553年、これに「仮名目録追加」を加えます。その中で義元は、将軍の力に頼らず「自分の力量で国の決まりを定める」という考えを示しました。
1554年には、甲斐の武田家、相模の北条家と同盟を結びます(甲相駿三国同盟)。東と北の守りを固めたことで、義元は西の尾張へ目を向けられるようになりました。
武田信玄の戦いについては、「武田信玄と上杉謙信、川中島の五度の激突とは?最大の激戦・第四次の真相を徹底解説」で紹介しています。
本拠の駿府(今の静岡市)には、戦乱を逃れた京都の公家たちが多く移り住みました。駿府は、京都の文化が花開く町になっていきます。
桶狭間で何が起きたのか
1560年5月、義元は約2万5千の大軍を率いて尾張へ攻め込みます。対する織田信長の兵は、3千ほどでした。
5月19日の朝、今川軍は織田方の丸根砦・鷲津砦を攻め落とします。ところが昼すぎ、激しい雨が降り出しました。雨がやんだ直後、信長の軍勢が義元の本隊に攻めかかります。
大軍だったはずの今川軍ですが、兵は各地の城や砦に分かれていました。義元のそばにいたのは、全軍の一部だけです。本隊は崩れ、義元は信長の家臣・毛利新介に討ち取られました。42歳でした。
戦いの詳しい流れは、「織田信長の桶狭間の戦い、兵力8倍差を覆した奇跡の逆転劇とは」で紹介しています。
今川義元にまつわる3つの誤解
誤解1:天下を狙って京都へ攻め上る途中だった
桶狭間の戦いは、長く「義元が京都へ攻め上る途中の戦い」と説明されてきました。
しかし近年は、尾張との境にある鳴海城や大高城を確保するための戦いだった、とする説が有力です。この2つの城は今川方が押さえていましたが、信長の砦に囲まれて危うくなっていました。義元の狙いは天下ではなく、国境の守りを固めることだったと考えられています。
誤解2:公家かぶれの軟弱な大名だった
ドラマなどでは、義元はおしろいを塗り、輿(人が担ぐ乗り物)に乗る公家風の姿で描かれがちです。
しかし、義元が乗った塗りの輿は、将軍家から使うことを許された格式の高い乗り物だったとされます。輿に乗ることは、軟弱さではなく、家柄の高さを示すものでした。「馬に乗れなかったから輿に乗った」という話は、後の時代に作られたものとみられます。
誤解3:油断して負けた愚かな大将だった
朝のうちに砦を落とし、勝ちを確信した油断がなかったとは言えません。ただし、敗因はそれだけではありませんでした。
大軍ほど兵を各地に分けなければならず、大将のまわりは手薄になります。そこへ激しい雨が重なり、信長はその隙を逃しませんでした。義元の敗北は、一人の愚かさよりも、大軍が抱える弱点を突かれた結果といえます。
なお、討ち取られる際、義元は相手の指を食いちぎるほど激しく抵抗したと伝えられています。
義元を支えた太原雪斎と、その後の今川家
義元を若い頃から支えたのが、僧侶の太原雪斎(たいげん せっさい)です。雪斎は義元の師であり、外交や軍事でも力を発揮しました。三国同盟も、雪斎が中心となってまとめたとされます。
しかし雪斎は、桶狭間の5年前の1555年に亡くなっていました。雪斎が生きていれば、桶狭間の結果は違ったかもしれない、という見方もあります。
もう一人、義元のもとで育った人物がいます。のちの徳川家康です。家康は少年時代を今川家の人質として駿府で過ごし、義元から「元」の字をもらって「元康」と名乗りました。桶狭間の後、家康は今川家から独立していきます。
義元を失った今川家は、子の氏真の代に武田家と徳川家に攻められ、1569年に大名としての力を失いました。
まとめ:一度の敗北で、人を決めつけない
今川義元にまつわる3つの誤解を振り返ります。
- 誤解1:京都へ攻め上る途中だった → 実際は、国境の城を守るための戦いだったとする説が有力
- 誤解2:公家かぶれの軟弱者だった → 輿は家柄の高さを示す格式の乗り物だった
- 誤解3:油断した愚かな大将だった → 大軍の弱点と天候が重なった敗北だった
義元は、国を治める法を整え、同盟で国を守った優れた大名でした。それでも、たった一度の敗北で「弱将」と語り継がれてしまったのです。
義元の実像をもっと身近に感じるために、次の3つを試してみてください。
- 桶狭間を「今川側」から読み直す:信長の逆転劇を、守る側の目線でたどってみる
- 駿府の町を歩く:義元が育てた文化の名残を、静岡市で探してみる
- 人の評価を一度の結果で決めつけない:職場の同僚や部下の失敗を見たとき、それまでの実績も思い出してみる
あなたの身の回りにも、一度の失敗で誤解されている「今川義元」はいないでしょうか。
ゆかりの地を訪ねる
今川義元の足跡をたどるなら、次の場所がおすすめです。
- 臨済寺(静岡県静岡市葵区):今川家の菩提寺で、太原雪斎が住職を務めた寺です。少年時代の家康が学んだとも伝えられます。ふだんは非公開で、春と秋の特別公開のときに拝観できます
- 駿府城公園(静岡県静岡市葵区):今川家の館があったと考えられている場所です
- 桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市):義元の墓碑が建つ、国の史跡です
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参考文献・参考サイト
書籍
- 小和田哲男『今川義元 自分の力量を以て国の法度を申付く』(ミネルヴァ日本評伝選)ミネルヴァ書房
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