戦国武将

今川義元はなぜ弱将?桶狭間の敗因と3つの誤解を解説

たった一度の失敗で、それまでの実績がすべて塗り替えられる。長く組織で働いてきた方なら、そんな場面を見たことがあるかもしれません。戦国時代の今川義元は、まさにその典型です。駿河・遠江・三河の3か国を治め、「海道一の弓取り」と呼ばれた大名でした...
戦国武将

島津義弘の捨てがまりとは?関ヶ原の敵中突破戦法を解説

66歳。関ヶ原の戦いで西軍が総崩れになったとき、島津義弘はその年齢でした。周りは敵ばかりです。後ろへ逃げても、追いつかれて全滅するだけでした。そこで義弘が選んだのは、敵のまっただ中を「前へ」突き抜けて退くという道です。その退却を支えたのが、...
戦国武将

黒田官兵衛の知略と生涯|軍師が導いた3つの天下取り

家督を息子に譲り、隠居の身だった55歳の男が、短い間に約9千の兵を集めました。1600年、関ヶ原の戦いの裏で九州を駆け抜けた、黒田官兵衛です。官兵衛は、信長・秀吉・家康という3人の天下人の時代を生きた軍師でした。それぞれの天下取りの場面で、...
戦国武将

前田利家と加賀百万石の礎|槍の又左が築いた3代の道のり

天下人にはならなかった。それでも、家は270年続いた。「槍の又左」と恐れられた前田利家は、信長、秀吉という2人の天下人に仕えました。利家自身が天下を取ることはありません。それでも前田家は、江戸時代を通じて最大の大名「加賀百万石」として続いて...
戦国武将

立花誾千代とは何者か、7歳で城主となった生涯を解説

戦国時代、わずか7歳で城主となった少女がいました。立花誾千代(たちばな ぎんちよ)です。父は、九州の大友家を支えた名将・立花道雪。男子のいなかった道雪は、娘の誾千代に家の跡を継がせました。ところが6年後、城主の座は婿に迎えた夫・宗茂へ移りま...
合戦・通説検証

長篠の戦いと鉄砲三段撃ちの真実|3000挺の噂を徹底検証

織田信長が3000挺の鉄砲を三列に並べ、武田の騎馬隊を打ち破った。学生時代、教科書でそう習った方も多いのではないでしょうか。ところが今、この「常識」は大きく揺らいでいます。3000挺という数字も、三段撃ちという戦法も、確かな記録には見当たら...
戦国の暮らしと文化

戦国時代の兵糧とは?合戦を支えた3つの食事情

戦国時代の兵士は、1日にどれくらいの米を食べていたと思いますか。答えは、およそ6合です。今の茶碗にすると、12杯ほどにもなります。重い鎧を着て、何日も歩き続ける兵士には、それだけの食料が必要でした。合戦の勝敗を決めたのは、刀や槍だけではあり...
戦国の暮らしと文化

忍者の実像とは?伊賀・甲賀に伝わる情報戦の3つの手口

黒装束で手裏剣を投げ、闇夜に屋敷へ忍び込む。忍者と聞くと、そんな姿を思い浮かべる方が多いでしょう。しかし、伊賀・甲賀の忍びが本当に得意としたのは、戦うことではありません。敵の情報を集め、味方に確実に届けることでした。今でいえば、情報収集を専...
お城

戦国時代の築城術5選、天守に込めた防御の工夫とは

城を訪れて、天守を見上げる。「立派だなあ」で終わっていませんか。実は城には、攻めてくる敵を迎え撃つための仕掛けが数多く隠されています。石垣の反り、曲がりくねった通路、白い壁に開いた小さな穴。どれも、敵の動きを読んで考え抜かれたものです。本記...
合戦・通説検証

織田信長の桶狭間の戦い、兵力8倍差を覆した奇跡の逆転劇とは

永禄3年(1560年)5月19日、尾張の桶狭間。3千ほどの兵を率いた27歳の織田信長が、2万5千ともいわれる今川義元の大軍を破りました。兵力の差は、およそ8倍です。なぜ小さな織田軍が、大軍に勝てたのか。実は、よく知られる「迂回して奇襲した」...