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島津義弘の捨てがまりとは?関ヶ原の敵中突破戦法を解説

戦国武将
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66歳。関ヶ原の戦いで西軍が総崩れになったとき、島津義弘はその年齢でした。

周りは敵ばかりです。後ろへ逃げても、追いつかれて全滅するだけでした。そこで義弘が選んだのは、敵のまっただ中を「前へ」突き抜けて退くという道です。

その退却を支えたのが、「捨てがまり」と呼ばれる戦法でした。本記事では、捨てがまりの仕組みと敵中突破の一部始終、そして島津家がどう生き残ったのかを解説します。

関ヶ原で島津義弘が置かれた状況

なぜ兵が1500ほどしかいなかったのか

関ヶ原の戦いが起きた1600年、島津家の当主は義弘の兄・義久でした。義弘は、上方(京都・大坂周辺)にいた島津家の代表という立場です。

戦いが近づいても、薩摩の国元から十分な援軍は届きませんでした。そのため義弘が率いた兵は、約1500ほどとされます。数万の軍勢が集まった関ヶ原では、ごく小さな部隊でした。

西軍の総崩れと、取り残された島津隊

1600年9月15日の朝、関ヶ原で戦いが始まります。島津隊は自分の陣を守ったまま、積極的には動きませんでした。

昼ごろ、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返ります。これをきっかけに、西軍は次々と崩れていきました。気づいたときには、島津隊は戦場に取り残され、東軍に囲まれていたのです。

関ヶ原の寝返りについては、「石田三成と関ヶ原の裏切り劇|小早川秀秋ら5人の真相と結末」で詳しく紹介しています。

「前へ退く」敵中突破

西軍の多くは、西の伊吹山の方へ逃げていきました。しかし同じ方向へ逃げれば、勢いに乗った東軍に追いつかれます。

義弘が選んだのは、逆の道でした。目の前の東軍の中を突き抜け、南東の伊勢街道へ抜ける道です。途中には、徳川家康の本陣のすぐ近くを通る場面もありました。

この退却は、のちに「島津の退き口(のきぐち)」と呼ばれます。退き口とは、退却の道筋、またその退却戦のことです。

捨てがまりとは何か

敵の中を抜けても、追ってくる東軍を振り切らなければ、生きて帰ることはできません。そこで島津隊が用いたのが「捨てがまり」です。

本隊が退くあいだ、数人から数十人の小隊を道に残します。残った兵は座り込んで鉄砲を構え、追ってくる敵、特に馬上の指揮官を狙い撃ちました。小隊が全滅するまで戦い、時間を稼ぐのです。その間に本隊は先へ進み、また次の小隊を残します。

残った兵が生きて帰れる見込みは、ほとんどありません。名前の由来には諸説ありますが、自らの命を「捨てて」敵を食い止めた戦法でした。

この戦法は、追う側にも大きな被害を与えました。追撃した徳川家の重臣・井伊直政は、島津の鉄砲で傷を負います。この傷が、2年後に直政が亡くなる原因になったとされます。家康の四男・松平忠吉も、この追撃で傷を負いました。

退き口で散った家臣たち

退き口では、多くの家臣が義弘を逃がすために命を落としました。

  • 島津豊久:義弘の甥です。最後尾で追っ手を食い止め、烏頭坂(うとうざか。今の岐阜県大垣市上石津町)で討ち死にしたとされます
  • 長寿院盛淳(ちょうじゅいん もりあつ):義弘の陣羽織を身に着け、「我こそは義弘」と名乗って敵を引きつけ、身代わりとなって討ち死にしたと伝えられます

約1500で関ヶ原に入った島津隊のうち、薩摩までたどり着いたのは80人ほどだったとされます。

薩摩への帰還と、島津家の生き残り

戦場を離れた義弘は、伊勢から大坂へ向かいました。大坂では、人質として置かれていた妻たちを連れ出します。そして船で九州へ渡り、薩摩へ帰り着きました。

帰国の途中、同じく西軍に付いて敗れた柳川の立花宗茂と合流したとも伝えられます。宗茂の父・高橋紹運は、かつて島津軍との戦いで命を落としていました。それでも宗茂は、敗れた義弘を助けたといいます。

宗茂と妻・誾千代の生涯については、「立花誾千代とは何者か、7歳で城主となった生涯を解説」で紹介しています。

戦いの後、島津家は家康との交渉に臨みます。交渉を担ったのは、当主の義久と、義弘の三男・忠恒(のちの家久)でした。国境の守りを固めながら粘り強く交渉を続けた結果、1602年、島津家は領地をそのまま認められます。西軍に付きながら領地を減らされなかった、数少ない大名でした。

義弘はその後、薩摩の加治木で静かな晩年を送り、1619年に85歳で亡くなりました。

まとめ:捨てがまりが教えてくれること

捨てがまりは、家臣が命を捨てて主君を逃がす、あまりに過酷な戦法でした。それでも、その犠牲によって義弘は生還し、島津家は領地を守り抜きます。

逃げ道がないなら、前へ出る。66歳の義弘が下した決断は、追い込まれたときこそ、思い切った一手が道を開くことを教えてくれます。

島津の退き口をもっと身近に感じるために、次の3つを試してみてください。

  • 関ヶ原で退き口の道をたどる:島津義弘の陣跡から烏頭坂まで、実際の道筋を地図で追ってみる
  • 鹿児島の「妙円寺詣り」を知る:関ヶ原の苦難をしのび、甲冑姿で義弘を祀る神社まで歩く行事が、今も毎年秋に行われています
  • 自分の「退き口」を考える:仕事で追い込まれたとき、後ろに下がるのではなく、前に出て道を開く方法はないか考えてみる

あなたが義弘だったら、関ヶ原で前へ出る決断ができたでしょうか。

ゆかりの地を訪ねる

島津の退き口の舞台を歩くなら、次の場所がおすすめです。

  • 島津義弘陣跡(岐阜県関ケ原町):関ヶ原の戦いで島津隊が陣を構えた場所です。近くの岐阜関ケ原古戦場記念館とあわせて訪ねられます
  • 島津豊久の碑(岐阜県大垣市上石津町):豊久が討ち死にしたと伝わる烏頭坂に建つ碑です
  • 徳重神社(鹿児島県日置市):義弘を祀る神社です。「妙円寺詣り」の目的地として知られています

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💬 あなたの考えを聞かせてください

島津の退き口について知っていることや、関ヶ原の古戦場を訪ねた思い出があれば、ぜひコメント欄で教えてください。次の記事で取り上げるかもしれません。

参考文献・参考サイト

書籍

  • 桐野作人『関ヶ原 島津退き口 義弘と家康―知られざる秘史』ワニブックス

Webサイト

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