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黒田官兵衛の知略と生涯|軍師が導いた3つの天下取り

戦国武将
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家督を息子に譲り、隠居の身だった55歳の男が、短い間に約9千の兵を集めました。

1600年、関ヶ原の戦いの裏で九州を駆け抜けた、黒田官兵衛です。

官兵衛は、信長・秀吉・家康という3人の天下人の時代を生きた軍師でした。それぞれの天下取りの場面で、官兵衛は大きな役割を果たしています。

本記事では、官兵衛が関わった「3つの天下取り」を軸に、その知略と生涯を解説します。隠居してなお大勝負に出た生き方は、人生の後半戦を考える方にも響くはずです。

黒田官兵衛とは 播磨の小さな家から

黒田官兵衛は1546年、播磨(今の兵庫県南西部)の姫路に生まれました。名前は孝高(よしたか)で、晩年には「如水」と名乗っています。

黒田家は、播磨の御着城を本拠とする小寺家の家臣でした。官兵衛は若くして家を継ぎ、黒田家の城だった姫路城を任されます。

当時の播磨は、東の織田信長と、西の毛利家という2つの大きな勢力にはさまれていました。どちらに付くかで、家の運命が決まる時代です。

天下取り1:信長の天下 播磨を織田方へ導く

小寺家を織田方に付かせる

播磨の多くの武将が毛利家に付くことを考えるなか、官兵衛は「これから伸びるのは信長だ」と見抜きました。そして主君の小寺家を説得し、織田方に付かせます。

1577年、信長の命令で、羽柴秀吉が播磨へやってきます。官兵衛は、自分の城だった姫路城を秀吉に差し出し、中国地方を攻める拠点としました。信長の天下取りが西へ広がる足がかりを、官兵衛が用意したのです。

有岡城の幽閉と、半兵衛が救った息子

1578年、信長の家臣・荒木村重が、摂津の有岡城(今の兵庫県伊丹市)で反旗をひるがえします。官兵衛は村重を説得するため、ただ一人で有岡城に向かいました。

しかし説得は失敗し、官兵衛は城内の牢に閉じ込められてしまいます。官兵衛が戻らないことから、信長は「官兵衛も裏切った」と考えました。そして、人質として預かっていた官兵衛の息子・松寿丸(のちの長政)を殺すよう命じます。

このとき松寿丸をかくまい、命を救ったのが、秀吉の軍師・竹中半兵衛でした。約1年後、有岡城が落ちて官兵衛は救い出されます。しかし、長い牢暮らしで足が不自由になりました。

後に官兵衛と半兵衛は、秀吉を支えた2人の軍師として「二兵衛」と呼ばれるようになります。

天下取り2:秀吉の天下 「ご運が開けた」の一言

1582年、秀吉は備中高松城(今の岡山市)を攻めていました。城の周りに堤防を築き、川の水を引き込んで城を水に沈める「水攻め」です。この作戦は、官兵衛の提案だったと伝えられています。

その最中に、本能寺の変の知らせが届きます。主君の信長を失い、取り乱す秀吉に、官兵衛は「ご運が開けましたな」とささやいたといいます。天下を取る好機だ、という意味です。

秀吉はすぐに毛利家と和睦し、軍を引き返しました。これが「中国大返し」です。山崎の戦いで明智光秀を破った秀吉は、天下人への道を歩み始めます。

秀吉の天下取りの歩みは、「豊臣秀吉の出世街道と人心掌握術に学ぶ、7つの成功法則と処世訓」で紹介しています。

1587年の九州平定の後、官兵衛は豊前の中津(今の大分県中津市)12万石の大名となりました。しかし1589年、44歳で家督を長政に譲り、隠居します。

江戸時代の書物には、秀吉が「自分の次に天下を取るのは官兵衛だ」と言ったという逸話が残っています。官兵衛の早すぎる隠居は、秀吉の警戒を避けるためだったとも考えられています。

天下取り3:家康の天下 関ヶ原の裏で九州を駆ける

1600年の関ヶ原の戦いで、息子の長政は家康の東軍に付き、本戦で活躍しました。一方の官兵衛は、九州の中津にいました。

官兵衛は、蓄えていた金銀を使って浪人を集め、約9千の軍勢を作り上げます。そして9月13日、石垣原(今の大分県別府市)の戦いで、豊後の旧領主・大友義統を破りました。

2日後の9月15日、関ヶ原の本戦はわずか1日で家康の勝利に終わります。それでも官兵衛は兵を止めず、九州各地の西軍方の城を次々と攻めていきました。筑後の柳川では、西軍に付いた立花宗茂を説得し、城を明け渡させています。

宗茂と、その妻・誾千代の生涯については、「立花誾千代とは何者か、7歳で城主となった生涯を解説」で紹介しています。

官兵衛が兵を収めたのは、家康から戦いをやめるよう命じられてからでした。九州を手に入れ、天下をうかがう考えがあったという説もあります。

江戸時代の書物には、こんな逸話も伝わっています。関ヶ原の後、長政は「家康が自分の右手を取って感謝してくれた」と父に報告しました。すると官兵衛は、「その時、お前の左手は何をしていたのか」と言ったというのです。左手で家康を刺せば天下が取れた、という意味です。

関ヶ原の戦いについては、「石田三成と関ヶ原の裏切り劇|小早川秀秋ら5人の真相と結末」で紹介しています。

戦いの後、長政は筑前(今の福岡県)52万石の大名となりました。官兵衛はその後、静かな晩年を送り、1604年、京都の伏見で59歳の生涯を閉じます。

官兵衛を支えた家族と家臣

官兵衛の妻・光(てる)は、1567年ごろに嫁ぎました。官兵衛は生涯、側室を持たなかったとされます。戦国武将としては珍しいことでした。

家臣たちの中でも、長政の代まで黒田家を支えた精鋭は「黒田二十四騎」と呼ばれます。中でも有名なのが、酒豪の母里太兵衛です。

太兵衛は、福島正則との酒の席で、大きな杯の酒を飲み干しました。その褒美に、正則の名槍「日本号」を手に入れたといいます。この話は、民謡「黒田節」として今も歌い継がれています。日本号は、福岡市博物館に収められています。

まとめ:3つの天下取りが教えてくれること

官兵衛は、3人の天下人の天下取りに、それぞれ深く関わりました。

  • 信長の天下:播磨を織田方に付かせ、西への足がかりを作った
  • 秀吉の天下:本能寺の変の直後、天下取りの好機を見抜いた
  • 家康の天下:息子を東軍に送り、自らは九州を平らげた

1年近い幽閉から立ち直り、44歳で身を引き、55歳で再び大勝負に出る。官兵衛の生涯は、一度の挫折や引退で終わらない生き方を教えてくれます。

官兵衛の生き方を身近に感じるために、次の3つを試してみてください。

  • 自分の「次の一手」を考える:会社や業界の大きな変化を、官兵衛のように「好機」として見直してみる
  • 半兵衛のような恩人を思い出す:苦しいときに支えてくれた人に、今あらためて感謝を伝えてみる
  • ゆかりの地を訪ねる:姫路・中津・福岡に、官兵衛の足跡が残っています

あなたが官兵衛だったら、隠居した後、関ヶ原の年に兵を挙げたでしょうか。

ゆかりの地を訪ねる

官兵衛の足跡をたどるなら、次の場所がおすすめです。

  • 姫路城(兵庫県姫路市):官兵衛が秀吉に差し出した城です。今の白い城は、その後に池田輝政が築き直した姿です
  • 中津城(大分県中津市):官兵衛が大名となって築いた城です。関ヶ原の年、ここから九州へ兵を進めました
  • 福岡城跡・福岡市博物館(福岡市):福岡城は、官兵衛と長政が築いた城です。博物館では、名槍「日本号」などの黒田家の名宝を見られます

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💬 あなたの考えを聞かせてください

官兵衛と半兵衛、あなたならどちらの軍師に仕えたいですか。好きな軍師やエピソードがあれば、ぜひコメント欄で教えてください。

参考文献・参考サイト

書籍

  • 諏訪勝則『黒田官兵衛 「天下を狙った軍師」の実像』(中公新書)中央公論新社
  • 小和田哲男『黒田官兵衛』(平凡社新書)平凡社

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