慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣。
一人の武将が、徳川家康の本陣に何度も斬り込みました。家康の本陣は大混乱に陥り、天下人は討ち取られる寸前まで追い詰められます。
その武将こそ、真田信繁(幸村)です。
実は信繁は、30代半ばから14年間、紀州の九度山で監視つきの暮らしを強いられていました。不遇の時を越え、最後に挑んだ一世一代の勝負。
本記事では、その突撃にまつわる3つの真実を紹介します。わずかな兵で、なぜ家康まであと一歩に迫れたのか。その理由も解き明かします。
目次
- 大坂の陣とは?信繁が挑んだ最後の戦い
- 「幸村」は後の時代の呼び名
- 豊臣と徳川、最後の対決
- 九度山から大坂城へ
- 冬の陣で名を上げた「真田丸」
- 最後の決戦、5月7日に何が起きたのか
- 最後の突撃にまつわる3つの真実
- 真実1:家康の馬印が倒れた
- 真実2:「日本一の兵」は敵方の言葉だった
- 真実3:あと一歩に迫れたのは、信繁の力だけではなかった
- 信繁の最期
- まとめ:信繁の最後の突撃が、今も心を打つ理由
- 参考文献・参考サイト
大坂の陣とは?信繁が挑んだ最後の戦い
「幸村」は後の時代の呼び名
「真田幸村」の名は、広く知られています。しかし、信繁が「幸村」と名乗った確かな記録は見つかっていません。
「幸村」の名は、江戸時代の軍記物や講談で広まったものです。本記事では、本名の「信繁」で統一します。
豊臣と徳川、最後の対決
1600年の関ヶ原の戦いに勝った家康は、1603年に江戸幕府を開きます。それでも大坂城には、秀吉の子・豊臣秀頼がいました。家康にとって、豊臣家は最後の気がかりだったのです。
1614年の冬の陣と、1615年の夏の陣。この2度の戦いを合わせて「大坂の陣」と呼びます。
九度山から大坂城へ
関ヶ原の戦いの年、信繁は父・昌幸とともに西軍に付きました。父子は信州の上田城にこもり、関ヶ原へ向かう徳川秀忠の大軍を足止めしています。
戦後、父子は紀州の九度山(今の和歌山県九度山町)へ送られました。関ヶ原の戦いで何が起きたのかは、「石田三成と関ヶ原の裏切り劇|小早川秀秋ら5人の真相と結末」で詳しく紹介しています。
父の昌幸は、九度山で亡くなります。それでも、信繁の暮らしは変わりませんでした。
1614年、豊臣方から誘いが届きます。信繁は九度山を抜け出し、大坂城に入りました。
冬の陣で名を上げた「真田丸」
冬の陣で、信繁は大坂城の南に「真田丸」を築きます。本城の外に張り出して造った、小さな砦です。
攻め寄せた徳川方は、ここで大きな被害を受けました。この戦いで、信繁の名は一気に知れ渡ります。
ところが和睦の条件として、大坂城の堀は埋められてしまいます。真田丸も取り壊されました。守りを失った豊臣方は、夏の陣で城の外に出て戦うしかなくなったのです。
最後の決戦、5月7日に何が起きたのか
5月7日、豊臣方は大坂城の南に陣を敷き、徳川方を迎え撃ちます。信繁が陣取ったのは、天王寺口の茶臼山でした。
信繁の兵は、約3千5百。対する徳川方は、全体で15万ともいわれる大軍です。
これだけの差があれば、まともに戦って勝つことはできません。信繁が狙ったのは、ただ一つ。家康の首でした。
正午ごろ、戦いが始まります。信繁の隊は、正面の松平忠直の軍勢(越前勢)を突き崩しました。そのまま、家康の本陣へと迫っていきます。
最後の突撃にまつわる3つの真実
真実1:家康の馬印が倒れた
馬印とは、戦場で大将の居場所を示すために掲げる目印です。
信繁の隊は、家康の本陣に三度にわたって斬り込んだと伝えられます。本陣は大混乱に陥り、家康の馬印も倒れました。
徳川家の家臣・大久保彦左衛門は、著書『三河物語』にこう書き残しています。馬印が倒れたのは、三方ヶ原の戦い以来のことだった、と。
三方ヶ原の戦いは、1572年に家康が武田信玄に大敗した戦いです。家康の生涯で、最も危なかった場面の一つとされます。家康が自害を覚悟したという話も伝わりますが、こちらは確かな記録がありません。
真実2:「日本一の兵」は敵方の言葉だった
信繁を「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称えたのは、味方ではありません。徳川方に付いていた、薩摩の島津家です。
島津家に伝わる記録には、次の言葉が残されています。
「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」
「真田こそ日本一の武士だ。昔の物語にも、これほどの者はいない」という意味です。戦いの様子を伝え聞いた敵方までもが、信繁の奮戦を認めたのです。
真実3:あと一歩に迫れたのは、信繁の力だけではなかった
約3千5百の兵が、なぜ家康の目前まで迫れたのか。そこには、いくつかの条件が重なっていました。
① 毛利勝永の奮戦
信繁の隣では、豊臣方の毛利勝永が戦っていました。勝永の隊は、徳川方の本多忠朝らを討ち破ります。徳川方の前線が崩れ、信繁の隊が進む道が開けました。
② 「浅野が寝返った」という誤報
戦いの最中、徳川方の浅野長晟の隊が陣を移します。それを見た徳川方の兵の間に、「浅野が寝返った」という声が広がりました。味方の動揺を、信繁は見逃しませんでした。
③ 家康一人に狙いを絞った
信繁は、戦いに勝つことではなく、家康を討つことだけを目指しました。守りを捨てた一点突破が、大軍の中に穴をあけたのです。
この3つが重なったからこそ、信繁の隊は家康まであと一歩に迫れました。
信繁の最期
しかし、兵力の差は埋められません。三度の突撃で、真田隊の兵は次々と倒れていきました。
傷ついた信繁は、安居神社(今の大阪市天王寺区)の境内で休んでいたところを討たれます。討ち取ったのは、松平忠直隊の西尾宗次(仁左衛門)とされています。信繁は49歳だったといわれます。
翌5月8日、大坂城は落ち、豊臣秀頼は自害しました。豊臣家は滅び、戦国の世は終わりを告げます。
まとめ:信繁の最後の突撃が、今も心を打つ理由
信繁の人生の大半は、華やかなものではありませんでした。30代半ばから14年間、九度山で先の見えない日々を送っています。
それでも信繁は、最後に巡ってきた機会にすべてを懸けました。負けるとわかっていても、全力を尽くす。その姿が、弱い立場の者に肩入れする「判官びいき」の心を揺さぶります。2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』をはじめ、今も繰り返し描かれるのはそのためでしょう。
長く日の当たらない時期を過ごした人にも、大きな勝負の場は巡ってくる。信繁の生き方は、そう教えてくれます。
信繁の足跡をたどるなら、次の場所がおすすめです。
- 安居神社(大阪市天王寺区):信繁が最期を迎えた地です。境内に信繁の像と「真田幸村戦死跡之碑」があります
- 茶臼山(大阪市天王寺区・天王寺公園内):信繁が最後の陣を敷いた場所です
- 九度山・真田ミュージアム(和歌山県九度山町):九度山での暮らしから大坂の陣までをたどれます。近くには、昌幸・信繁父子の屋敷跡と伝わる真田庵もあります
真田家の家紋「六文銭」に込められた覚悟については、「戦国武将の家紋に隠された意味とは?厳選10家の由来と象徴を解説」で紹介しています。
あなたが今過ごしている時間も、いつか来る勝負のための「九度山」なのかもしれません。あなたにとっての最後の大勝負は、何でしょうか。
真田一族の物語をもっと深く味わいたい方へ
信繁の生き様を、父・昌幸や兄・信之とともに長い物語で味わいたいなら、池波正太郎の『真田太平記』がおすすめです。真田家の親子と、陰で動く忍びたちの活躍を描いた大河小説で、新潮文庫で全12巻。まずは第1巻から手に取ってみてください。
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参考文献・参考サイト
書籍
- 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(角川選書)KADOKAWA、2015年
Webサイト
- 国立公文書館「大坂冬の陣・夏の陣|徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯―」
https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents5_04/ - 九度山町観光協会「九度山・真田ミュージアム」
https://www.kudoyama-kanko.jp/sanada/


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